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理化学研究所放射光総合研究センター 山本雅貴先生にインタビューしました

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2016年5月11日取材

先生が研究者になられたきっかけを教えていただけますか。

 もともと子供の頃から昆虫図鑑は好きでしたし、生き物に興味がありましたね。そして一方では目覚まし時計とかの機械ものをいじるのも好きでした。最近は今の仕事を続けているモチベーションを自分で2つに整理しています。1つは何で生物が生きているのか。石ころは生きてないけれど、何で虫や動物は生きているのかを知りたいということ。もう1つは、まあ目が悪かったこともあったかもしれませんが、見えないものを見たい、というその2つですね。この2つのモチベーションがずっとあって、大学の進路はあまり悩みませんでした。80年代初頭はバイオテクノロジーとか、遺伝子がどうのとかいうことが話題になった頃だったので、生物系の学科に行こうと。ただ、普通の理学部生物学科というところよりは、ちょうど学際ブームでもあったので、より工学的な、阪大基礎工学部の生物工学科を選びました。実際には何をやっているのかを知っていたわけではなく、そこまで深く考えてもいなかったのですが、生物学でもないし工学でもなく両方を含むので一番いいのかなと思って進んだんですね。
 それとX線を始めるきっかけはすごく単純で、4年生の研究室配属でたまたまX線の研究室に配属されたから、という理由です。本当は脳・神経関係をやってみたかったんですけれど、そのような研究室は志望倍率が高くて、じゃんけんに負けたんです(笑)。たまたまものを見ることにも興味があったので、「まあX線でもいいか」ということで(笑)。
 学部と修士までは、生物工学科の小角散乱をやっていた植木龍夫先生の研究室でした。4年生では他の人とはちょっと違って、小角散乱用の測定装置をワンボードパソコンからはんだごてを使って自分で作って、ソフトも機械言語で直接書き下してROMに焼いて動かすみたいなことをやりました。修士では自作の測定器を使って、小角散乱でヌクレオソームを使ってどこまで精密な構造解析ができるかを調べました。ヌクレオソームはタンパク質とDNAの複合系なので電子密度がタンパク質とDNAで違うんですね。そこで、溶液中のタンパク質の小角散乱である溶液散乱では試料と周りの溶媒の電子密度の差分(コントラスト)しか信号として観測されないので、その原理を利用してヌクレオソームのヒストンタンパク質の電子密度にマッチングした溶媒条件を見つけることで、DNAだけからの散乱を取り出すことのできるコントラストバリエーション法を使って構造を観察しました。実際にはお砂糖を溶かしたどろどろの溶液に試料を入れて測定したんですが、それでDNAがヌクレオソームの中でヒストンの周りにらせん状どういうピッチで、どのくらいの長さで巻き付いているかを、なんとなく形が見えるようなところまで解析しました。当時は溶液散乱では基本的には分子の概形サイズや分子量くらいしかわからない時代だったのですが。でもその時ふと思ったんですね。ものを見るにはもっと細かく見なければだめだと。それで、博士課程から阪大の蛋白研に移って、X線結晶構造解析を始めました。

その当時、X線結晶構造解析はまだ今のようにどこでもやられていた時代ではなかったですね。

 そうですね。新規タンパク質の構造が日本でも10個解けているかどうかという時代ですね。国内で2か所、東大薬学部の飯高(洋一)研と阪大蛋白研くらいしか本業としてはやっていない時代でした。それで、「ここはひとつタンパク質の結晶解析をやってみたい」と思って蛋白研の博士課程に進学しました。でももともとは、私自身は研究者になりたいとは思っていなかったんですが。

え、そうなのですか。それでも結晶構造が見たいと思われたのですか。

 そうです。もともとはとっとと卒業してとっとと金を稼いでお金持ちになるぞと(笑)。ちょうどバブルの頃で、なおかつ、理系の文系就職が始まった頃だったので、就職は引く手あまただったのです。でも、祖父母が病気になって、結局亡くなったのですが、4年生から修士のはじめは学校にあまり行けなかったんです。やることはやって卒業できて、修士も無事に終了できたのですが、何か中途半端でやり切っていないなあという思いもあって、それで博士には何も悩まず進んでしまいました。

研究者を目指されていたわけではなかったのに、ということですね。

 そうです。当時は商売人になったら絶対に誰にも負けないくらいのつもりでいたんですけどね(笑)。
 でも小角散乱には構造を見るという意味では、すごくフラストレーションを感じていたんです。見えている訳ではなくて推定しているだけではないかとね。小角散乱で見えるのは分子全体の概形までだったのが、結晶構造解析では結晶内の立体的な電子密度分布が求められるということで、よっぽどしっかりものが見えて構造が決められるのではないかというので、どうしてもやってみたいと思ったんです。

博士課程ではどのようなことをなさったのですか。

 蛋白研では、私がそこにいる人たちとまったく違う教育を受けてきていたせいで、みんなの中でやたら機械に強くて、ソフトができて、タンパク質もある程度は扱える人間でした。それで結局はおかしな話ですが、結晶構造解析というより、蛋白研の測定機器のお守とか、研究室が企業と一緒にやっていた研究機器開発のメンバーとして働いたり、その他にも計算機にソフトを全部ポーティングするというようなことをやっていました。

結晶構造解析の裏方の仕事をやっていらしたというわけですね。

 そうですね。その当時に今のような仕事に方向づけられたんだと思います。

今でもそうかもしれませんが、蛋白質も機械もソフトもわかるという方は少なかったでしょうね。

 一番びっくりしたのは、とにかく受けてきた教育がまったく違ったんです。その当時研究室には理学部の高分子学科から学生が来ていたんです。彼らは主に化学のこととか化学実験の教育を受けて来ていたのでしょうね。構造解析に関しては「こういうソフトがあります。だからそれをこういう順番に使って解析してください」という具合でお作法にうるさくて。私なんかからすると測定装置から解析ソフトから全部自分で作ってきていたので、「それって何の意味があるんですか?」、「これってどういうパラメーターなんですか?」なんて生意気な質問ばかりでよく怒らましたね。それで「何だ、ここは?!」って入った当初は思っていたんですけど、それでもまあ自分で何とか解決しようと、足らない部分は自分で作る、うまくいかなければソフトを改良する、ということを繰り返しながら自分なりにやっていました。
 それと、当時の日本は貿易収支の黒字減らしを海外から迫られている時期だったんですね。それまで国内では国産のミニコンとか大型計算機を使って結晶構造解析の計算をやっていて、蛋白研にもNECの大型計算機がありまして、研究室が昔から蓄積したソフトを使って解析をしていたのです。それが黒字減らしのためにDECの計算機とエバンス&サザーランドの3次元端末とかゼントロニクス(シーメンス)の2次元X線検出器といった海外のいろいろな装置と、それらの装置で動く分子モデリングソフトFRODOや分子動力学による構造精密化ソフトXPLORとかがどんどん入ってきた時期だったのです。でもそういった機械のことは研究室では私以外にあまり得意ではありませんでした。そこで私が主にそれらの装置の立ち上げやメンテナンスを担当していました。だから海外ソフトを始めて使った経験というのは多いと思います。作ったりした部分もありますし、構造解析用ソフトのCCP4の開発の一部を協力したこともありました。でも最近のソフトは全然わからなくなってしまったので今は何もしないですけど(笑)。コンピュータだけではなくて機械も得意でしたから、そういう意味でも当時の私は、研究室では特殊な人種だったと思いますね。装置によっては業者さんが来るよりも自分でやった方が速くて正確に直せましたしね(笑)。

先生はそれが面白くもあったのではないですか。

 そうなんです。そういうのが面白かった。子供の頃は時計をばらしてもとに戻せなかったというような経験ばかりでしたので、ようやく何とか修理できるようになったというような感じかな(笑)。

装置を使って出てきた結果よりも、結果が出るまでの途中の過程の方にとても興味がおありだったということなのでしょうか。

 そうですね。完全にその通りで、こういうこと言うと怒られるのですが、解いた構造自体がどうのこうのということにはあまり興味がなくて、構造を解くこと、どうやってできないことをできるようにするか、ということに1番の興味がありましたね。まあ特殊ですよね。それで誰も評価してくれなくて大変だったんですが(笑)。今でも私がやっているようなことを教育している場所はあまりないので、日本発という新しい技術がなかなか出てこないのがすごく不満なのですがね。

博士課程に入るときには、修了したら一区切りをつけて商売の方に行くおつもりだったのが、今先生がここにいらっしゃるということは、その3年間の間に何かが変わったということなのでしょうか。

 そうですね。蛋白研での経験から研究現場を支える仕事をしてみたいと思うようになって。それで修士時代の教官で、その当時は理研に移られていた植木先生にお願いして、理研に就職することにしたんです。まあいろいろと紆余曲折があって理研に就職したのですが、理研に決めたのにはさらなる理由があるんです。ちょうどSPring-8が具体化しようという時期でしたので、「理研で結晶解析の部門を立ち上げて、ビームラインを作って、SPring-8を結晶構造解析の日本のメッカにして下さい」というのが雇って下さった植木先生の私へのリクエストだったので、SPring-8に行くことを決意して理研に就職しました。

そうなりますと、先生はSPring-8が出来上がる前の胎動期からかかわっていらしたのですね。

 そうですね。1991年から理研にいるので、もう何年いるんだ、という感じですね(笑)。SPring-8が播磨のここで動き出すのが1997年からの予定だったので、最初は和光にいていろいろとやっていました。理研というところは実は結晶構造解析という意味では、昔は有機化合物低分子研究ではメッカだったのですが、タンパク質というのは当時全然経験がなかったんです。ただ、結晶化研究室があって、神谷信夫先生がいらしたのですが、先生も装置は好きだけどあまり解析の実績がないという、ある意味私と近い立場の人だったんです。という訳で、そこで一緒に理研で蛋白質結晶構造解析を立ち上げましょうということになった。現在、岡山大学におられる沈建仁先生がPSII(photosystem II)の結晶ではないかというものを始めて作ったのも和光の理研だったんです。
 播磨には、現地での建設工事が始まって、円形の蓄積リング棟の1周の8分の1くらいができた1995年に移って来ました。1995年から10年間くらいはSPring-8から少し離れたオプトハイツという所に住んでいたのですが、最初の頃は今のテクノ中央から先には舗装道路もなかったですね。SPring-8の前の道ができるまでは、普通の車ではSPring-8の建築現場や研究所まで行くことができなくて、ジープやバスでの送迎でした。光都の街開きイベントがあったのは、それから2年ちょっとすぎた1997年でした。
 でも1997年から共用開始ということで1994-5年頃にビームラインに関しても予算が付いて、「1997年には、パイロットビームライン10本、理研専用として2本のビームラインをそろえて一挙に使えるようにしましょう」、ということになりました。規模の割には潤沢に予算があるわけではなかったので、実際にどのようなビームラインを作るかという設計段階から共同チームを作って、揃えなければならない装置類(モノクロメータ、ミラーやハッチ等)といった共通で使える機器類は共通コンポーネントということにして、そこで設計してコピーを大量生産するという方針で建設を始めました。その時のコンポーネントの1部は、私も設計を担当しました。

ということは、先生はこの施設の何もかもをご存知ということですね。

 そんなことはないですけど(笑)。ただ、生物系には結晶解析か溶液散乱しか選択肢がないので、特にそれらに関してはそれなりにわかっているとは思います。初期のころは生物系以外の物理のビームラインでも、どこで何をやっているかはよく知っていましたね。借り物競争みたいな時代でしたから。サイエンスにかかわらず共通で使える装置というものがあるのですが、誰が何を持っていて実験ホールのどこに何があるかはほぼすべて掌握していましたね。冗談みたいな話なのですが、当時SPring-8には営業部がありました。共同チームという理研、原研、JASRIの3組織が三位一体となって一緒に動いていたのですが、組織間では研究風土も人のパターンも全然違うので、それを調整しながら一緒に仕事を進めていこうということで、各グループから1人ずつ代表、といっても偉い人というのではなく、実働の現場の調整役、いわば雑巾がけの下っ端ですよね、そういう人を出して営業部というのを作ったんです。その中で私は理研の営業部員ということで、スケジュール調整から実際の物の調整からその他のあらゆる現場の調整をしていました。そのおかげで今でもこのキャンパスでは顔が売れているというか、知り合いが多いんです(笑)。

営業部というのは実際の部署の名前ではなくて、そういう風に自分たちで呼んでいらしたということですか。

 そう、自分たちで勝手に名乗っていたんです。その当時は本当に楽しかったですね。みんなでSPring-8を作っているという実感があって、誰がどこの所属だからというのは一切関係なしで、何か人手が足らないときには人を集めてくるとか、「それは誰が知っているからあの人に手伝ってもらおう」とうような具合でした。そのおかげで立ち上げからきちっと動いたみたいな感じですね。いろいろとそういうことも経験させていただく中で、蛋白結晶構造のビームラインもどんどんできてきたという訳です。私は今も研究プロジェクトでは営業部のようなものがないと多くの人が一緒に仕事をするときに大きなシステムがうまく回っていかないのではないかと思っています。最近は営業部という代わりに「雑巾がけ担当です」と言っていますが。「自分はこうだからこれしかやりません」という人たちだけでは研究は回っていかない。だからいろいろな物や人をうまくつないでいく人っていうのがすごく重要だと思います。今どきの研究は人と人との共同作業で物事を進めていかなければならないことの方が多いと思うので、そのような橋渡しの能力がある人っていうのがすごく重要だと思うんですよね。

PDISも人と人をつなぐプロジェクトのように思いますが。

 PDISでは技術支援と高度化というのが二本柱ですが、私自身としては技術支援という意味では施設は「使ってなんぼ」なので使ってもらわないと困る。使うためのシステムを作ってうまく回るようになれば、後は「みなさんいっぱい使ってくださいね」という感じで。問題は「現状のシステムでできないことがあったらどう解決しますか」という高度化の方が私には興味が湧く。私はそういう人種なんでしょうね。

それは専門の棲み分けということでしょうか。

 そうですね。いつも「サイエンスとエンジニアリングは車の両輪で、2つがそろわなければ物事は前に進みませんよ」と言っているんです。でも、日本ではサイエンスをやっていないエンジニアをやたら低く見るという傾向があって、それが不満といえば不満ですね。サイエンスだけをやっている人にとってはそのようにみえるのでしょうかね。

先ほど高度化というお話がありましたけれど、高度化をするときには実際に研究をやっていらっしゃる方のお話がないとできないですよね。そのような繋がりをどのようにお考えですか。

 その意味ではユーザーにもいろいろなタイプの方がいらっしゃいまして、当然すごく面白いと思って新しいものを使ってくれる人や、今までできないからやってみる価値があるといってトライアルをやってくれる人もいます。たとえば京大の小林拓也先生のところもそうですし、東大の濡木理先生のところもそうですね。要するに、今あるものをあるように使っていたのでは前に進めない、という人たちが高度化の1番の情報提供者で、「これがどうにかなったらいいんだけどね」と言ってもらえると、「それではどうしましょうかね」と一緒に取り組める。一方でルーチンとして「こうでなくては駄目」と決めた通りに必ずやりたいという人たちもいるので、そういう人たちにはユーザーとしていかにスムーズに使っていただけるかというところが大切になります。専用の設備や装置の使い勝手をよくすることも、別の意味での高度化ですし。ただ、最近はせこくなってしまって、「これができたらNature 、Science」とか言われると「これどうにかしましょう」ということになるんですけど(笑)。
 でも基本は「なぜ解析可能なデータが取れなくて構造決定まで進まないのか」という疑問が私にとっての1つのモチベーションですね。最近ですと微小結晶用マイクロフォーカスの開発があります。あれは結晶化が難しいタンパク質で、ようやく結晶ができても小さいものしかできないというサンプルが持ち込まれて、「それは結晶に見えるけど結晶ではないのではないか」、「結晶が小さすぎるからデータが取れないのではないか」、というデータが取れない理由が今1つわからなかったところから生まれたものです。当時世界的にもいろいろな論文が出てきていて、その中に、結晶をつくる単位格子の全個数が回折強度に効くので、それを考慮すると108から109個くらいの単位格子を持つ結晶が2 Å程度の分解能で構造を解くための限界の大きさだ、という論文がありました。1990年代には現実にそれを超える結果はほぼありませんでした。そんな時に「こんな小っちゃい結晶しかできないんだけど、でもこれ解けるようにしてよ」と、最初におっしゃったのは、理研の横山茂之先生でしたね。その当時マイクロフォーカスのビームラインが世界的にも始まったところでESRF(European Synchrotron Radiation Facility, グルノーブル)で、X線のマイクロフォーカス光学系の研究開発をしているC. Rikel先生とUCLAの生物系のD. Eisenberg先生が組んで5 μmくらいのビームで、太さが数ミクロンで長さが数十ミクロンの結晶から構造が解けます、という報告が出たことで、「もしかしたらもっと小さくてもできるかも」という話が一部でささやかれはじめていました。それと「マイクロクリスタルの結晶から構造が解けたらサンプルは浴びるようにありますよ」と言われた先生が横山先生をはじめ他にもいらしたということもあって、SPring-8でも取り組んでみようということになりました。
 始めるにあたって「タンパク3000プロジェクトの次は今まで解析できなかった小さな結晶をターゲットにしましょう。そのためのビームラインを作りましょう」と言って何とか次のターゲットタンパク研究プログラムで予算が取れて、それでマイクロビームラインを作りました。当初「マイクロビームを作ってマイクロクリスタルの結晶構造解析をやります。」と世界中に宣伝して回っていましたが、そうすると「お前は馬鹿か」、「お前は論文を読んでいないのか」などいろいろいわれました(笑)。要するに先ほどお話ししましたように1辺が10 μmの立方体で1辺10 nmの単位格子の数は109個になりますよね。それを下回る1辺1 μmになると103個減るから106個の単位格子です。だから、「そんなことできる訳ないじゃないか」と世界中で言われた訳です。そんな中でマイクロビームを作って、実際に小さな結晶から構造を解いたんです。データが取れなかった理由は、それまでは1 x 1 x 1 μm3の物に直径10 μmという大きなビームを当てていたので、試料には当てたビームの数%にも満たない光が当たっていただけで、試料以外のいらないところで生じた寄生散乱のためにバックグラウンドだけが高くなって、肝心の結晶からのシグナルを拾うことができなかったということだったんです。本当に1 μm角の光を作って当ててみたら、リゾチームの結晶を使ってテストすると1 x 1 x 3 μm3くらいの体積からちゃんと2 Åくらいの回折点が見えたんです。それで頑張ってde novoで5 μm角くらいの結晶からでもタンパク質の構造が解けるようになった。膜蛋白質では濡木先生の所とかからいろいろな結晶が出てきて、結局10 μm角のLCP結晶からでも分解能が3 Å弱ではあるのですが、de novoで構造が解けるようになった。このようにある程度私たちの技術開発が進んでくると、今度は海外に呼ばれるようになって、いつの間にか新しい放射光蛋白質結晶構造解析の標準が「タンパク質の結晶構造解析はマイクロフォーカス、1ミクロンビーム」でという時代にほぼなってきた。偉い先生方は最初いろいろと言ってたんですけどね(笑)。

小さな結晶で構造が解けるとなると結晶を作る労力もだいぶ減ることになりますね。

 そうですね。それが標準になる方向に向かっていると思います。
 でも私はこれまでの結晶構造解析はもうこの当たりが限界で、それ以下は結晶構造解析ではないだろうと思っています。そして、溶液散乱はランダム系ですけど、ある程度の蛋白質が向きを揃えた非常に小さな結晶、私はたまにクラスター構造解析とかと適当なことを言っているのですが、「103分子から構造を決めましょう」というサイエンスをいずれやなければいけないと思っています。そしてそれができるのがSACLAではないかなあ、と思っているんです。
 ただ、現在の私自身のSACLAに関する1番のモチベーションは、実はそのこととは別のCXDI(Coherent X-ray Diffraction Imaging)というものです。クライオ電顕では今単粒子解析が流行っていますよね、あれと同じような単粒子解析をX線でもやろうというのがCXDIです。つまり、X線は透過性が高いので電顕では厚すぎて見えない細胞内小器官や細胞レベルの単粒子についてその内部構造をX線を使ってラベルなしで見てやろう、ということです。うまく光源と測定装置全般が協調的に進歩すれば、小さなところからでも取れる信号が増えて、どんどん小さなスケールのものまで見えるようになって、いずれは電顕の単粒子解析くらいまで行く可能性はあると思っていますが。当分先のことにはなりそうですけれどね。そして最後には「細胞から蛋白質まですべてなんでも見える」ということになるのかもしれない。100年先なんて何が起こっているかわかりませんからね(笑)。

そうなるとやはり出会いの場も大切になりますね。

 ニーズのないものを作って押し付けても駄目ですしね。基盤は高い技術力を持ってどっしりと構えていつも門戸が開かれているというのが理想で、マッチングの場がなければだめですが、利用にあたって敷居がないシステムも大切だと思いますね。私は本当に何か新しいことをしたいというときにすぐそれに答えられるような支援の体制ができればいいのかなあと思っています。下支えがあってこそ上に何でも載せられるということですから、アカデミアのニーズに応えて、できないことをできるようにする基盤としてしっかり地に足をつけておかないと。そこが一番重要かなと思いますね。それと、アカデミアの人たちからの一方的な業務命令でやりなさいということになるのではなく、「私はこれが知りたいです」、「私はこれができます」というニーズとシーズがマッチングしてうまく回せればうれしいですね。
 今はいろいろなことがアウトソースできるようになってきたことと関係があるかもしれないですが、昔以上にアカデミアの世界ではエンジニアに比べて研究員という立場が強くなってきているように思うので。そして、現代になって、日本の1番のお家芸である研究者が技術から研究まで分業化せずにすべてにかかわるという姿勢が失われてきていると思っているので、どんなことがあっても放射光の分野でだけはこの姿勢を死守しようと思って頑張っています。
 だから、これまでも「日本初」などそれなりに貢献していることは多いと思うのですが、これからのためにも技術面を含めて世界と戦っていきたいと思っています。

そのような中で、今後このプロジェクトをどのように発展させていければとお考えですか?

 やっぱり最初にお話しした、見えないものを見えるようにする。私の歴史と一緒なのかもしれませんが、小角散乱から結晶解析にきて、結晶解析もマイクロクリスタルのようなこれまで解けると思わなかったものが解けるようになってきた。最初は構造がわかって構造の図鑑ができればと思ったのですが、ゲノムが全て解読されてもすべてがわからなかったのと同じように、構造がわかってもそれだけではだめで、動く要素、構造ダイナミクスを含めた構造面から機能を理解するための構造解析を今後は開発していかなければいけない、というのが今の私の思いですね。もう1つはCXDIやクライオ電顕ように結晶場というようなものがない系の解析にも取り込んで、今まで以上に構造と機能を様々な階層で統合していく構造生物学を展開していかなければいけないのではないと思っています。次期プロジェクトではそういうことに取り組まないと間に合わないと思いますね。

「細胞から蛋白質まですべてなんでも見える時代」を目指して、ということですね。
本日は貴重なお話をありがとうございました。

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